『魔法少女まどか☆マギカ』、こないだ全話を通してみたら面白かった!
でもラストへの展開、なんか見覚えがある。
あれ?これって僕が2008年にやったトークイベント「遺言」で話した、幻のボツ版『トップをねらえ!2』の設定と似てるんじゃない?
生放送中だったので、とりあえず「そう思ったけど考えすぎ?」と話したら、やっぱり同じように感じた人もいたみたい。
こんなブログを見つけた。
真相がどうかとか、どうでもいい。
僕としては、自分でも忘れかけていた、幻のボツ版『トップをねらえ!2』を思い出せて、ちょっとうれしかった。
言うなれば、「死んじゃった我が子と,面影のよく似たアイドルが活躍してるのを見て応援したくなる気分」かな(笑)
頑張れ!まどマギ劇場版!
ついでに、その「幻のボツ版『トップをねらえ!2』」の資料も掲載しちゃうね。
長いので、ゆっくり楽しんでください。
実際の講演音声はコチラです。(音源を見つけてくれた河内家のシュウコウ、ありがとう!)
音声ファイルへの直リンクは
参考資料『遺言』最終章 P357~P373より
ディズニーの地下
さて、この本もいよいよ最後、『トップをねらえ2!』の話です。
第一作『トップをねらえ!』に関しては、「努力や根性」は旗印であって、それを信じてるわけじゃない、そのことを語りたいわけじゃない、という説明をしました。
「努力や根性を信じてるわけじゃない」というのと、「努力や根性を馬鹿にしてる」というのとは、意味が違います。
ディズニーランドを例にあげて説明します。僕らアニメを作る側、お話を作る側は、ディズニーランドの地下にいる側だと思ってるんです。ディズニーランドを支えているスタッフの側なんですよ。ディズニーランドに来るお客さんとは立場が違う。
お客さんはディズニーランドやミッキーが大好きな人たちです。だからミッキーを信じても構わない。ミッキーマウスという生物が実在すると思っていても、全く構わない。
「あ、ミッキーだ。可愛い!」とか「ディズニーは夢と魔法の世界」と思っていても構わないんです。
でも、僕らのように、ディズニーランドを地下で支えている人間は、ミッキーを信じちゃ駄目なんですよ。ミッキーを信じずに、「四時になったらサイトー、ミッキーの着ぐるみを来てちゃんと出ろよ」ってことをしてなきゃいけないんですよ。
「サイトーお前、四時からミッキーだからな、ちゃんと三時半には帰ってきて服着替え始めろよ」「わっかりやしたぁ」という人間はミッキーを信じてない。
三時五十五分になったら、ミッキーが現れる羽根扉みたいなのにスタンバイして、「三、二、一、サイトー……じゃない、ミッキーいけ!」と言うから、ミッキーは時間どおりに登場できて「やぁ、ボクはミッキーだよ」って心から挨拶できるわけです。
これがディズニーランドの地下にいる人間のスタンスです。
「努力と根性」もミッキーと同じです。
アニメの中で語っている、夢とか努力とか根性とか正義を、お客様に信じて貰うために必死でアニメを作ります。
ところが、自分たち自身がそれを信じちゃったら、作品は作れないです。
「努力と根性」でアニメーターは働いてくれないんですよ。「努力と根性」じゃなくて、根回しとか説得とか動画単価を信じるんです。泣き落としとか、ギャラのつり上げとか、サボっている北久保をシバキ倒すとか、そういう具体的な行動の積み重ねで、はたから見てると夢のような作品を作っていくわけです。
表からみると奇麗な夢の建物は、こちらからみるとむき出しの材木や鉄骨とかで、なんとかギリギリの強度で支えて作っている。
壮大で夢のようだけど、でもハリボテを作っているんです。
だからこの本で語ってきたような『トップをねらえ!』のテーマは、今までお客様には言わないままでした。それはディズニーランドの内側を見せるような行為です。語るべきではない、と言い切る人もいます。
でも、この世界はすでに僕たちクリエイターが考えていた「作者/観客=消費者」という対立軸はすでに意味がなくなっている、と僕は思いました。誰もが観客であり、同時にクリエイターなんですよ。今は。
映画を見るときは観客で、それをブログに書くときは表現者です。メールで友達みんなに知らせたら、それは立派なジャーナリズムの一部なんです。
それに、ほっといたら世の中ってのはどんどん、夢や魔法の国を信じる人、つまりディズニーランドを信じたい人ばっかりで一杯になっちゃう。
もしくは、「ディズニーランドなんて嘘だ!」と言って、ディズニーランドの矛盾を見つける人ばっかりで一杯になっちゃう。
夢とか魔法とか正義以外の行為で、どんなに「裏側の人」が夢の王国を作っているのかというのは、やっぱり知っといて欲しいなぁ。後から作る人のためにも、そういう方法論は残しときたいなぁ、と思ったわけです。
というわけで、ようやっと『トップをねらえ2!』です。
ある日、ガイナックスの佐藤てんちょ★から、『トップ2』の第一話DVDを渡されました。で「面白かった」と伝えたら「ちょっと手伝ってくれませんか?」と打診された。
どういう意味だろうと思いましたよ。まさか自分が『トップ2』を作るのに呼ばれるとは思っていなかったですから。
正直、見る前は自分の気に入るアニメという気はしなかったし。きっと『フリクリ』★(二〇〇〇)っぽいんだろうな。宇宙フリクリじゃねぇの? と思ってました。
『フリクリ』というガイナックスアニメがあったんすよ。少し前に。僕はこれを見て「また『エヴァ』をこじらせたような作品作りやがって」と思ったんです。みんなこじらせるよねぇって。
だから『トップをねらえ2!』もヤな予感がして。一話を試しに見たんですね。
さすが、ガイナが久々に作ったストレートなSFアニメだけあって、めちゃくちゃ面白いんです。めちゃくちゃ面白いんだけども、やっぱり宇宙フリクリの匂いが、そこかしこから漂ってくる。
でも他のアニメと比べて圧倒的に面白いことに変わりはないし、『エヴァ』のように何か新しいことをやるんだろうなという期待もすごく感じました。
このタイミングで佐藤てんちょから「鶴巻(和哉)さん★(一九六六~)に会ってみませんか」って呼び出しを受けた。理由を聞いたら「『トップをねらえ2!』の設定でちょっと助けて欲しい」と言う。
「あらま、俺に今ごろ助けを求めてくるとは」と正直思ったんですけど。詳しく聞くと、全六話中の、ほぼ第四話までは決まっている。でも五話六話の着地の仕方に関して、鶴巻監督がまだ悩んでる、と言うんです。
まだ悩んでるって言われても、一話からして設定が全然わかんないんですよ。普通、一話二話というのは、見てる人に総覧的にほぼ全ての設定をだーっと開けて見せて、はいこんなお話なんですけど、ってやるものなんです。
でも、『トップ2』は違います。この時代からアニメは「謎解き」みたいな話が多くなってきた。『エヴァンゲリオン』とか『少女革命ウテナ』★(一九九七)と同じで、一話二話見ても、何が何かわからない作り方をしています。
おそらく、最終回になっても何がなんだかわかんないじゃないかな、という気がするわけです。『劇場版ウテナ』(★なんて、最後は主人公二人が素っ裸で抱き合って自動車になって、どっか地平線まで走って消えちゃう。いや冗談じゃなくて、ほんとにそんな話なんです(写真)。
だから僕は「『トップ2』と言っても流行りのサブカル路線で作るんでしょ? だったら設定とか別に気にしなくていいじゃない。謎かけっぽいセリフとか難解っぽい用語があれば」と気のない返事を返しました。
「そうじゃないんです。鶴巻さんは真面目に『トップをねらえ!』をやろうとしています」と佐藤てんちょは言うんですよ。
「それはもう、僕らが見ても心配なくらいです。鶴巻さん自身が、ど真ん中の『トップをねらえ!』ファンで、真面目に正統的な続編をやろうとしています。鶴巻さんは、第一作トップのスタッフに実際に全員会って色々な話聞いたけど、まだ話聞いてないのが岡田さんなんですよ。岡田さんが『トップをねらえ2!』をどういうふうに考えていて、岡田さんが考えたら五話六話はどういう風になるのかというのを聞いてみたいと言ってるんです」
"結合エネルギーの意義は何ですか
さあ困りました。監督が「話を聞きたい」と言ってくれても、すでに四話までできている作品の方向性をそんなに変えれるはずがない。
おまけに、その四話までの設定は部外秘だから見せられない、と言うんですよ。
とりあえず第一話は実際に見ました。で、二話から三話の大きな流れを口で説明されただけです。
「とりあえず四話までは盛り上がります。でもラストに向かって、なにか足りないような気がする。その足りない部分を岡田さんなら知ってるような気がする。岡田さん、これどう思いますか? 鶴巻さんに遠慮なく、忌憚のない意見を」っと頼まれたわけです。
第一話を見て、第二話と三話を口頭で説明される。
四話は教えてもらえないけど「盛り上がることは確実だ」と言うからには旧トップの四話と同じ「主人公が使命を自覚して真の能力を開花させる」という流れでしょう。
で、僕が依頼されているのは「この流れで考えられる、もっとも『トップ』らしい、破天荒だけどSFの匂いが濃厚なラストへの流れ」です。
ガイナがその時あった武蔵小金井の駅近くのファミレス、ジョナサンに行って、そこでグラタンを奢ってもらいました。
昔、学生時代の企画会議と同じノリですね。「コーヒー奢ってくれるなら一時間はお前の為に働こう」というノリです。
グラタンを食べて、それから一時間半は『トップをねらえ2!』の事だけ考える、という約束で、その場で一時間半でラストへの流れと設定を考えたんですよ。
まず『トップをねらえ2!』の設定確認から始めました。
トップレスという特殊な能力が『トップをねらえ2!』に出てきます。人間の想像力とか子供の妄想とか空想力みたいなものだ、ということです。
ところがこれには質量保存則やエネルギー保存則が通用しない。なんにもない所から急に巨大なロボットが出てきたり、光の速度とか無関係に現象が起きるんです。これじゃSFにはならない。ファンタジーです。
「トップレスの能力って、科学じゃなくて「何だかわからない無限力(ちから)」みたいなもんだよね。これは解決されるの?」って聞いたら、「そこら辺の謎は四話で明らかにされます」って鶴巻さんも佐藤てんちょも言うんですよ。
何を聞いても「それは四話に明らかにされる」という返事。
「わかった、四話が面白くなるのは分かった。で、俺は何をすればいいの?」って聞いたんすけど、取り合えず、思ってることとかアイディアとかをドンドン出してくれ、って言われました。
まず十五分くらい、一話を思い出して、『トップをねらえ2!』で足りないものは何だろうか。真剣に考えてみたんですよね。
鶴巻さんが言うには『トップをねらえ!』の正当な続編にしたい。『トップをねらえ!』の世界観を全部受け継いで、キャラクターも全部受け継ぐものにしたい。
その時の会話で初めて、主人公ノノは前作の主人公ノリコになりたがっている存在だ、と聞きました。第一話のなかでノノが「ノノリリになる」と言っているのは、ほんとは「ノノリリココ」、つまり「ノリコ」という名前がバグを起こして繰り返しになってるだけで、ノリコになりたい、という意味なんだ、と聞きました。
『トップ1』のラストで主人公タカヤノリコは一万二千年後に地球に帰って来ます。ノノが「ノリコになりたい」って言ったらバレバレだから隠すために「ノノはノノリリになれる」って言ってみせるのだ。ということです。
ああそうか、あの女の子はタカヤノリコになりたい女の子なのね、了解了解。でもそれだったら、別に観客に隠す必要ないじゃん。そういう「必要以上に設定を隠す」というのがサブカル臭くて苦手なんだよなぁ。隠して謎を増やすんじゃなくて、単純にアイデアをもっと盛り込んだ方がSFになるのになぁ。
まぁ、これは作風というか監督の個性の問題です。
さらに設定確認は続きます。
ふむふむ、トップレスというのは超能力みたいな物なのね。それは想像力みたいなもので、それが実は宇宙怪獣を引き寄せるパワーになっている。宇宙怪獣を引き寄せる実は諸悪の根源みたいなもの。
おまけに四話まで出てくる、この世界でみんなが宇宙怪獣と思っている不気味な存在は、実はガンバスターだった。
それまで人間が作ってきた色んなタイプのガンバスターっていう巨大ロボット兵器が、実は宇宙怪獣から地球を守っていた。で、トップレスみたいな連中が超能力を使うことで宇宙怪獣を引き寄せないようにしていた、みたいな話をグラタン食べながら聞いたわけです。
この設定とある程度つじつまを合わせながら『トップをねらえ1』を継承する。それが監督の目指した作品作りです。
話を聞いているだけで、いくつか問題が見つかりました。まずSFが弱い。不条理は強いんだけど、SFが弱い。『トップ』の続編なのに。
お話の意味論的な繋がり、主人公がこういう性格だからこういうことをしなきゃいけない、という流れを優先するあまり、科学的な整合性とかはちょっと後回しにされている。
無から有を生む。質量がゼロの所から質量最大のものを、額のシールをはがして呼び出すようなことをしながら、そのことに関しては作品内で説明がない。
『トップをねらえ!』では、光の速度に近づくにつれてどんなことが起こるのかというのを、出来るだけギリギリまでやることによって、SFとか科学とか宇宙というものの「手ざわり」を残したつもりなんですけど、そのあたりに対するリアリティを鶴巻さんはもってない。
そのかわり「アニメ的」なリアリティは凄く持ってる。これを『トップをねらえ!』にもっと近づけるには、もうちょっとSFの方、科学的な方にずらしたほうがいい。そうすると、もうちょい派手なアイディアが必要だなぁと考えました。
『トップをねらえ!』の世界観では、宇宙という巨大な構造の前では、人間なんて微小なゴミみたいな存在である、という捉え方をしました。
この宇宙空間には、太陽があって宇宙怪獣がいて、それらが星を食べたり、星に飲み込まれたりしている。マクロな生存競争が行われているんだけど、人間はそこに浮かんでいるプランクトンとかミジンコみたいな物。
実は宇宙の構造の本質には関係してないんだよ。っていうのが『トップをねらえ1』の基本的な考えなんですよ。
これは中学の時に読んだ『大空の恐怖』★(コナン・ドイル作)という短編ホラー小説から影響を受けて考えたアイデアです。
まだ複葉機が空を飛び出した時代の小説です。飛行機が発達するにつれて謎の事故が増える。不時着した飛行機から、上半身を食いちぎられて絶命したパイロットの遺体が発見される。
実は雲海の中には、人類がそれまで知らなかった巨大な怪物が住んでいる。彼らは大空を住処とする、この地球の「本当の支配者」です。そういう巨大生物が雲海の中やいままで見えなかった超高空にウジャウジャ住んでいる。
人類を含めて地上の生物は、実は地表という海底に住んでいるローカル生物でしかない。それまで地上には興味の無かった高空怪獣たちは、空の世界に踏み出した人類を喰い、味をしめる。これから先、世界中で「空から襲来する怪獣」に人間は喰われるだろう。そして我々には、抵抗する方法もないだろう……。
こんな小説です。
だから、『トップをねらえ!』ではどんどんデカい宇宙怪獣を出していって、宇宙が舞台のホラーとしての怪獣物にしたわけですね。
人類や文明などまったく無意味な、生存競争の場としての宇宙。そこでは我々は「獲物」としてさえの価値すらない。圧倒的にスケールの大きな生物たちが宇宙の本質で、我々のような生命体は宇宙では端役以下だ。
これが『トップをねらえ!』の世界観です。
Amazonが置かれている
ならば、僕の考える『トップをねらえ2!』はこの逆で組み立ててみよう。
そう思いついて、グラタンを食べながら監督に話し始めました。
宇宙の根源である粒子の世界というのを考えるには、我々は巨大過ぎる、という考え方です。
実は、我々が「宇宙怪獣」と呼んでいる生命体はものすごく小さい。微生物よりも遙かに小さいのが彼らの本質です。宇宙怪獣とは、その宇宙生物が暴走した姿で、島宇宙から島宇宙にワープするためにあれだけの身体が必要なので、合体してるだけなんです。
『トップをねらえ!』の中で、宇宙怪獣が集団で群れて太陽を次々と赤色矮星化してゆくのは、銀河系全体をブラックホールにするため。ブラックホールになれば、この銀河から隣の銀河へ「渡り」ができるんですよ。
宇宙生物は宇宙空間の渡り鳥なんです。一つの島宇宙から別の島宇宙、一つの銀河から別の銀河へというように、次々と島を渡っていくような生物。渡る為に合体して巨大になったのが宇宙怪獣で、本来は物凄く小さい生物だと、まず仮定しました。
ものすごく小さな生命体なので、彼らは単独では無力です。なので他の生命体に寄生して生き延びようとします。それがトップレスの能力の元だという設定を考えました。
遥か昔、私たちがヒトザルであった頃、微小な宇宙生物と人類の祖先とが融合しました。その結果、ヒトは想像力を持つようになった。
つまり『2001年宇宙の旅』★(一九六八、アメリカ)におけるモノリスみたいな物です。
モノリスは、触ったりすると人間の認識が広がって、人間に知性が与えられる黒い板です。これは、二十世紀前半型の世界観です。これを二十一世紀型にして「宇宙生物は、人類のDNAの中に寄生している」と考えてみました。
なぜ人間は物を考えちゃったりするのか。なぜ人間は物を作り上げたり、自分に無理なことをしようとするのか。
僕らが、現実ではない世界を夢見たり、現実ではない美少女に憧れたり、現実には存在しないロボットにリアリティ感じたりするのは、宇宙生物がそういう風にさせているからなんです。
本来ヒトザルは、単純に生きて子孫を残していくだけの生物でした。少しでも長く生きて、少しでもたくさんの子供を生んで育てる。そうして死んでいくだけの生物です。
ところが、宇宙生物が寄生したおかげで、人間は想像力を持つようになってしまった。いま僕らが自分だと思ってるのは、元々の類人猿ヒトザルではなく、そのヒトザルと宇宙生物の融合体なんですね。
でも血液内の宇宙生物濃度が、老化とともに衰えていくんですよ。
思春期から二十歳あたりが体内の宇宙生物濃度が一番高くて、物を考えたり妄想したりオタク活動をするには最適な状態なんですね。でも大人になるに従って血中宇宙生物濃度がどんどん下がっていって、人間は想像力を失っていく。
こういう風にすればトップレスの能力というのは大人になったら失われるし、なぜトップレスの能力を使うと宇宙怪獣が来るのかとか、全部つじつまがあう。
難しいパズルが解けたような、できた!っていう喜びで僕はどんどん「岡田斗司夫の考えた『トップ2』の新設定」を監督に話しました。
宇宙生物には、二種類の進化の方法がある。一種は「自ら巨大化=宇宙怪獣化して、銀河をブラックホール化させて渡りをする」、もう一種は「知的生命に寄生して、文明を発達させて宇宙怪獣と戦わせ、銀河中心にブラックホールを作る」。どっちが成功しても、宇宙生物にとってはどっちでもいい。
そのため色々な星に文明を作り、ヒトザルに知性を与え、文明を起こさせる。科学を進め、ほどよく進んだ頃に宇宙怪獣になって出現する。これに対抗してブラックホール爆弾みたいな物を作らせて、銀河系をブラックホール化させる。
そういう進化をさせることが、彼らにとって生きのびることなんです。
その結果、宇宙怪獣になった宇宙生物は戦闘に敗れて死ぬかもしれないけど、小さいままの宇宙生物は生きのび、銀河はブラックホール化されて次の島宇宙への超空間ゲートが開かれます。超空間ゲートを通り、進化させた生物と一緒に新たな宇宙に渡って行く。そうやって彼らは生き延びるわけです。
では、なぜこの宇宙から別の宇宙にワープする必要があるのか。
それは、この宇宙が三百億年か五百億年したら滅びるのが、もう分かり切っているからです。
実は宇宙というのは、広がったり、縮んだりと、大きく脈動しています。
我々がいるこの宇宙も、大昔にあったビッグバンでだーっと広がっている最中です。で、ある一定の所まで膨らんだら、逆に縮みだすんです。
縮み続けて、最終的には宇宙は消えてなくなっちゃう。これをビッグクランチと呼びます。そのあと、次の宇宙が爆発して広がり始めますが、この宇宙は終わっちゃいます。
この宇宙で生き続けていると、宇宙生物も宇宙もろとも滅びちゃうわけです。だから、どうしても別の宇宙へ渡る必要がある。
宇宙生物は、種として生き残ることだけが本能の生物ですから、この宇宙をブラックホールにして滅ぼしてでも、生き延びようとします。彼らにとっては、それで何の問題もない。
観客を否定してお金をもらってはいけない
これでおおまかな設定は出来ました。
でも、まだこの設定には血肉が通っていない。「自分たち自身の話」じゃないからです。
『トップをねらえ1』では、宇宙怪獣との戦闘がお話のメインでした。『トップをねらえ2』では宇宙怪獣と共存共栄をメインにしようと考えました。
そうすると、「オタクなアニメ作品ばかり見ていると、自分たちの身内から女の子を殺しちゃうような犯罪者が出ますよ」という僕らの問題を扱えるかなと思ったんです。
僕が「いやぁ、オタクの中から宮崎事件が起こっちゃったよ」とショックを受け、「ああ、これはアニメを作ってる場合じゃねぇなぁ」と感じて、「美少女萌え萌えみたいなゲームも、俺にはもう、あまり能天気に作れないなぁ」ということに対する解答が、ようやくひとつ出せるわけです。
自分たちの中にいる妄想、オタク的な部分を否定すると、いつのまにか血中宇宙怪獣濃度が下がっていって、想像力もなくなり、無駄なことも考えなくなる。
それが大人になることかもしれない。でもその無駄なことを考えたり、夢みたいな物を思い描いたりすることが好きなんだったら、どうすればいいんだろう。
そんなことは考えないようにするのが良いことだ、立派なことだとは、どうも思えないんです。
だからといって、それを無限に暴走させることは怪獣を自分の心の中でどんどん増幅することです。この宇宙、つまり自分の人生や他人の人生を破壊したり犠牲にするような恐ろしいことかも知れない。想像力や「夢見るチカラ」というのは、同時に現実逃避であったり、現実否定に簡単に結びつく。
じゃあ、これを二つをテーゼとして合体させたら、なかなかいいものになるんじゃないかなと思ったんですね。
トップレスという部隊は、半分大人になりながらも、アニメを見ることがやめられない人、すなわちオタクのメタファーとして扱えるなぁと思いました。
もう一つ、『トップをねらえ!』らしいスケール感も、この設定をうまく利用すれば出すことができると考えたのです。
宇宙怪獣たちは単独でワープ出来ます。ということは、体の中にちっちゃいブラックホールを持っている、ということです。
そういう生き物が数億匹合体することによって、銀河全体をワープさせることが出来るんじゃないのか。
自分の体内にいるウィルスとしての宇宙生物と、数億匹が合体して銀河系自体をワープさせる宇宙怪獣。この両方のイメージをつなぐと、五話から六話あたりでスケールが幾何級数的にがーっと上がります。その加速感こそが『トップをねらえ!』の本質だろう、と考えたんですね。
どのようなままでは完全に核を理解することができます
こういう話をグラタン食べながら考えて、「よし、思いついた!」 ってガガっと話しました。
いや気持ちよかったですよ。
これなら『トップ2』は『トップ1』の正統な後継者になるし、現在の自分たちの問題も扱える。
SF濃度も濃くなるし、作品内の矛盾も解決される。
「よっしゃあ、いけるいける!」と、結構自信があったんですけどね。
困ったことに、話を聞いてくれる鶴巻監督の顔が暗いんですよ。
というのも、監督の世界観に合わないんです。
鶴巻監督の中では、オタクとはもっと否定的なんです。ガイナックスの中でもオタクを肯定的にとらえるか、否定的にとらえるかという派閥があったんですけど、鶴巻監督は否定派なんですよ。
監督は「オタクみたいなことはいずれやめなきゃいけない、人間は、いつまでも子供でいることはやめて、大人にならなきゃいけない」という考え方をしているようでした。
僕は、そういうお客さんを否定するようなことを言ってはいけない、物を作る資格がないと思っています。作り手側が、観客を否定するなら、少なくともお金を受け取っちゃいけないと思う。
オタクのお客さんを相手にするからには、「オタクは駄目なんだ」という言い方の中に、オタクに対する愛情とか、俺も含めてオタクなんだけど、というエクスキューズが必要です。
そうじゃないと、作品として成立しないと思うんですよ。見た人の心には届かない。
『ウィザード』という企画を僕があれほど好きなのは、作品の扱ってるテーマと自分の中の問題とが一致してるからです。
現に『トップをねらえ2!』を作ってる時点で、鶴巻監督は立派なオタクじゃないですか。その『トップをねらえ2!』を作ってる時点でオタクな人間が、オタクじゃ駄目だと言ってたら矛盾しちゃう。
もしこんな作品作るんだったら、鶴巻監督が引退作にするべきだ、と僕は思います。
もちろん、これは僕の持論であって、正論でもなんでもありません。僕固有の美意識、美学の問題なんです。
でも、僕が考えるからにはそこは譲れない。僕にアイディアを求めた限りは、僕の価値観まで受け入れてもらうか、または全部ボツにするかなんです。
鶴巻監督は、自分自身の中に「オタクと大人像」みたいなイメージがあるんですよ。オタク的な物を否定しながらも、そうじゃなくてこっちみたいな物が一連の鶴巻作品にあるんです。
このあたりがコンフリクトを起こして、弦巻監督の「暗い顔」になっちゃうわけですね。
しかし、はじめちゃったプレゼンは止まりません。僕の中ではすでに「『トップ2』はこうじゃなくちゃダメ!」というスイッチが入っちゃった。だからどんどん、続きを話しました。
『トップをねらえ2!』の五話六話、つまりクライマックスとして、「じゃこういう風にしよう」と僕が出したプロットはこうです。
宇宙怪獣の目的が「この宇宙全体から別の宇宙へ行く」だとすると、最後の戦闘で宇宙怪獣の目論見はほぼ達成されるわけです。つまりこの宇宙の銀河数億個が一ヶ所に集まっていって、巨大なブラックホールに……
そんなのアニメで絵にしようと考えてたんですよ。恐ろしいっすよ。
「宇宙全部の銀河が一ヶ所に集まって超巨大なブラックホール」って、僕は自分がやらないと分かっているから、口だけならばんばん言えますよ。なんとかなるだろうと無責任に考えていますからね。
でも作画や演出する側に立てば「そんなのどんな絵にするんだよ……」でしょう。でも大丈夫! ガイナックスなら作れる!
ともかく、この宇宙全体の質量が一つに集まって、超巨大なブラックホールができてしまう。宇宙に穴が空くわけです。別宇宙、別時空への超空間ゲートという通路が作られ、集まった宇宙怪獣がその通路を通ってすべて別の宇宙にワープして行ってしまう。
おそらく、この一つ前の宇宙か、もしくは一つ次の宇宙へ逃げるんです。
ノノはそこに飛び込んで行く。ノノはこの世界の「因果地平」へ行くことに成功するんですよ。
光の世界の向こうが、因果地平です。
僕らの物理法則が通用するこの世界は、実は光の速度という制限があります。
物事には「原因」があってから「結果」がある。僕らが当たり前だと思っているこういう法則も、この世界に光の速度を基準とする物理法則が存在しているからです。
光の速度が関係ない世界に行っちゃった瞬間、「結果」のほうが「原因」より先に来ちゃうことがあり得る。その結果ノノは、宇宙怪獣に先んじて因果地平の世界へたどり着くことで、この宇宙の「原因」になるんです。
ノノは、この宇宙の成り立ち全ての「原因」そのものになることに成功したのです。
この私たちの宇宙が生まれた「原因」は、ノノが「これでいい」と思ったからなんですね。『トップをねらえ!』で宇宙怪獣が襲ってきたのも、ノリコの父が死んだのも、あんな大戦闘があったのも、一万二千年経たないとノリコが帰ってこれないのも、ノノが「それでいいよ、もう私達たちの世界は」って思ったから。
だからこの世界が出来た。っていうふうなお話にしちゃおう。
それだけじゃなくて、ノノはこの世界の成り立ちすべてにOKを出したんです。
ルクシオン艦隊が宇宙に行くとか、『トップをねらえ!』のなかの戦闘シーンがあるとかだけじゃなくて、例えば一番最初の両生類が海から上がってきて人間になるとか、宇宙の塵が集まって地球になるとか、もしくはガリレオの宗教裁判が起こるとか、イエス・キリストが磔にされるとか。人類の歴史と全く同列にこのフィクションの世界が並んでいる。この全てをノノが見ていて、「これでオッケーです」とOKサインが出して、この話が完結する。
『トップをねらえ!』は宇宙怪獣が攻めてきて、人類がそれに対抗するという単純なお話でした。
でも、鶴巻さんが作った『トップをねらえ2!』だと、トップレスの持つそういう能力はなんなのか、という内省的な方向になります。そうなったら、この方向でお話に責任取るしかないんです。
つまり、トップレスの持つ特殊な能力、オタク的な想像力はいいのか悪いのか。もしくはそれを持ってしまった私たちは、生きていてもいいのか悪いのか。
そこまで、作者としては答えを出さないとしょうがない、と僕は思ったんです。
その答えが、ノノの出すOKなんです。
ノノは因果地平に行っちゃうわけだから、ノノが望めば宇宙生物は滅びるし、ノノ自身も人間になれる。
ノノがノリコになる世界も出来るんです。
でもノノが選ぶのは、この宇宙が「このままである」世界です。
人類も宇宙怪獣も、人類と宇宙怪獣が合体して進化した今の我々自体も全部肯定する。
結果的に、ノノはこの世界の存在する原因そのものになります。そういう「全面肯定」をやりたかったわけですね。
クライマックスシーンでは、恐竜を滅ぼす隕石とか、野牛を追いかける原始人とか、メディチ家に雇われて肖像画を描くダ・ヴィンチとか、広島を爆撃する原子爆弾とか、人類の月着陸の第一歩とか、あらゆる瞬間にノノがいるような風景を考えました。
それらすべての輝かしく、または目を背けたくなる過去と未来すべてにノノは「これでいい」と答えます。
それは、僕がいつもやりたいテーマです。
『王立宇宙軍』では辛うじてそのかけらを見せることができました。
『ふしぎの海のナディア』でもやりたかったけど、窓際族だったためできませんでした。
なぜ僕がガイナックス作品に必ず「歴史の瞬間」を入れようとするのかというと、見ている人との関係をその段階でようやっと詰めることができるからです。
最後に「実はこれ、お前の話だよ」というスタンスでお話を手渡したいんです。
アニメを作る俺達の話はもう終わったよ、これから先アニメを見ている君たちの話なんだけどさ、っていう風に間合いをだぁーっと詰めて行かないと、『トップをねらえ!』にならないと思ったんですよ。ガイナックス作品にならない、といってもいいんですけど。
で、ラストはもう、夢を見せるしかないんですよ。ここまでやってお客さんに「さぁお前の話だよ」って言っちゃったら、ストーリーはハッピーエンドでいいんです。
ノノは消えてしまって宇宙の原因そのものになってしまった。
銀河はすべて合体して巨大なブラックホールになってしまった。
でも、その向こうにありとあらゆる時空に繋がる「銀河ハイウェイ」がぱーっと現れて、色んな可能性の世界がだーっと開いている。
そうだ! 僕ら人間はどっちの方向にも行けるんだぞ!
そういうラストで多分やっていけるんじゃないのかな。
で、その「可能性の世界」の一つに視点がフレームインしていったら、一万二年後の地球に帰ってくるノリコとお姉さまっていうのでラストは締めれるなぁ、と思ったんですよ。
これでいける! って、僕のほうはもうノリノリですよ。
一時間半とグラタンだけでここまで考えられる人間が日本人の中で何人居るんだって言う感じで。なんて燃費のいい奴なんだオレは!
でも佐藤てんちょが気まずそうな顔して「岡田さんには色々考えて貰いましたけど、これはまぁちょっとこちらで検討するということで」と、いきなり銀行屋みたいなこと言い出しやがって!
このあたりで正直、今のガイナックスと僕との対話の限界を感じました。
GAIANXのメンバー一人一人の問題じゃないんです。今も佐藤てんちょは好きだし、鶴巻さんも凄くいい人で、もりたけしさん★(一九六三~)も先日、吉祥寺の駅前でばったり会って長々と色々話したんですけども、それぞれすごく良い人で、優秀なクリエイターであり、頼れるプロデューサーです。
でも、そういうのと一緒に作品が作れるかというのは全く別なんですよね。拠って立つ所が違う。
オタク的な感性そのものを「克服すべき敵」ではなくて、認めて共存すべきものというふうに僕は考えています。
「世界をよくする」という責任
僕の書いた『オタクはすでに死んでいる』(二〇〇八、新潮新書)★で、「オタクと言う民族はなくなった」と僕が言っているのは、オタクという趣味嗜好は自分の中の問題なんだから、外部に依存するのをやめて、自分自身の物として処理しよう、という考え方なんです。
外部に依存しようと考えている限り、絶対に自分のアイデンティティ「私って何だろうと思う心」は安心しないんですよ。
いつもいつも、「でもお前はもうオタクじゃない」とか「いや、そんなのオタクとはいえないとか」「今ニコ動見てないと駄目だ」「今この話が出きないとオタクと言えない」ってどんどん細かくなっていっちゃう。
それはキリがないと僕には思えるんですよ。
そうじゃなくて、そのオタク的なものを、卒業すべきものとか、外部に依存したものでなくて、自分の内部で共存できる、これからも一緒に生きてくものというふうにとらえるしかない。
だから、『トップをねらえ2!』も宇宙怪獣との共存というテーマにしようと考えたんですよ。『トップをねらえ』を見た人からしたら「そっちの方向に行きますか!」ってびっくりさせたかったんですね。
マクロの世界、宇宙全体でみると、宇宙怪獣は宇宙を滅ぼしている。でもミクロの世界、僕らの体内でみると、宇宙怪獣は人間の老化を止めている存在なんです。
血液内で、宇宙生物のウィルスとしての活動が衰えると人間は老化が始まるわけです。
無から有を産み出す力、トップレスっていう鶴巻さんが考えた設定は、アニメみたいなものだと思うんですよ。この世にない「もう一つの現実」を作ってしまう。「二次元の彼女がいるから、現実の女はいらない」と言えるのは、作品や観客の想像力が豊かだからです。
でも、その豊かな想像力や魅力的な作品は、同時に暗黒面も併せもつ。幼児相手の性犯罪者みたいな人間が、この僕らの日本でポツポツでてきています。
それは僕らが見ている漫画やアニメが原因でないと「言い切れない」ところが苦しい所なんですよ。
「漫画やアニメは直接の原因ではない」、と反論することは出来ます。
漫画やアニメで幼児との性描写が規制されているアメリカの方が、実は幼児への性犯罪率は高い。
日本の青少年の犯罪率は基本的には減っています。青少年の犯罪が増えているというのはメディアが仕掛けた幻像です。マンガやアニメがあふれている現在の方が、青少年の犯罪が減っているわけですから、直接の原因とは言えません。
そう、ここまでの「他者への反論」ならいくらでも可能なんです。
でも、それで僕たちの心は本当に納得できるのか。
僕らが楽しんだり産み出したりしているオタク的な作品は、本当に犯罪者を生まないのか。そういう心を刺激しないのか。
僕らの心の影の部分に宮崎勤的なものは本当にないのか。彼と僕らの間には本当に壁があるのか。
僕はやっぱりそうは考えられないんです。彼と僕らの間にあるのはうっすらとした、壁の影みたいなものだけで、僕らも何かの拍子であっちにいてしまうかもしれないし、何かの拍子で同じ作品をみてても、別の妄想を抱くようになって、犯罪に手を染めるかもしれない。
『完全自殺マニュアル』★(一九九三、太田出版)の作者、鶴見(済)さん★と前に話したときのことです。
「『完全自殺マニュアル』みたいな物を出す時、やっぱり心に抵抗はないのか」というと「全然ない。それよりは自殺したい人がちゃんと自殺出来ないことの方が問題だと思ったから、ああいう本を書いた」っていたんです。僕はそこはそれで、なるほどと納得しながらも、心の中で釈然としないんです。
ずいぶん前にドストエフスキー時代の「作家としての倫理観」を説明しましたが、作家に限らず表現者全体が、道徳とか倫理とかを語らないとヤバいことになるよ、という警報装置が僕の中にあるんですよ。
この世の中は完全に自由で、誰が何を言ってもよい。犯罪を犯すか犯さないかは、個人の責任なんだ。確かにこういう理屈も成り立ちます。
でもそういう個人責任論になっちゃうと、心の弱い人たちは犯罪を犯して、心の強い人は「ほら俺達は犯罪を犯さなかった。あいつらは駄目なんだ、あいつらは本当のオタクじゃなくてただ単に馬鹿なんだ」って責めるだけの社会になっちゃう。
責めた人間はそういう社会に対して、なんら責任を取らない。自分も好きで、作ることやお金を払うことで生み出された作品が原因であるにもかかわらず、「ほら見たことか」と言うだけで終わってしまう。
そういう犯罪を減らそうとしたり、この世界全体を何とかしようという方向に行かないんです。
僕はそれが嫌なんです。
萌え系のアニメとして『トップをねらえ2!』を成立させるということは、そういう物を作りたいとか消費したいとか見たいという、デモーニッシュな欲求を喚起させることです。
その結果、犯罪者になるかならないかは一か八かの賭けです。勝率はいいんですよ。九十九・九九九九パーセントは犯罪者にならないんです。でも、なっちゃった時のリスクが高いような賭けです。
そういう賭けをする限り、リスクと共存するしかないなぁと思います。
そういう犯罪を起こす奴を断罪するのではなくて、じゃあ、それも俺達の仲間なんだと一回引き受けるしかない。
だから『トップをねらえ2!』は「宇宙怪獣との共存」という変なことをテーマにしたかったんです。
でも鶴巻さんがやりたいのはそうじゃないんですよ。多分鶴巻さんの方がオタク業界にどっぷりつかっているからなんでしょうね。
『トップをねらえ!』の後半のほうから参加して、庵野君と一緒に『エヴァ』を始め、一杯作品を作ってきたわけです。
庵野君自身も、徐々に徐々にオタクというものに対して批判的になってきた時期でした。今の庵野君がどうかは知らないけど、『旧・劇場版エヴァ』のときはかなり批判的な傾向が強かったと思うんですよ。
そういう時代に、現場で付き合っていて同じような仲間として生きたわけです。『トップをねらえ2!』を作る時には、僕と感性が違って当たり前なんです。
残念だけど、これは一緒に作れないなぁ、と実感しました。
実際に完成した『トップをねらえ2!』は、五話六話の加速が、たとえば、最後地球を宇宙怪獣にぶつけるとか、確かにスケールアップしてるんだけど、そのスケールアップの方向がずれてる気がします。正直、話がデカくなってるだけじゃんって思いました。
でも俺、これには一時間半しか参加してなかったし、グラタンおごられた所でギャラは貰ってるも同然だし、あと最後まで『トップをねらえ2!』のDVDも貰ったしなぁ、文句は言えないんだけどね。残念だなぁとは思います。
それでも、この相談をされたのは、僕にとってとてもおもしろい経験でした。
『トップをねらえ2!』が四話までしか出来てなくて、五話六話がまだ見えてない段階で呼ばれたのが、新鮮でした。
今のガイナックスと僕が組むとしたら「オタクとの共存」というテーマをやることだろうとわかったこと。あと、最終回に向けて話の加速感を大きくする方法を思いついたこと。どちらも、依頼がなかったら考えもしなかったことです。
得難い経験でした。
「また、アニメ作んないんですか」とよく聞かれるんですけども、僕がやりたいアニメは、『王立宇宙軍~オネアミスの翼』と『トップをねらえ!』で全部やっちゃったんですよ。
テレビシリーズならやりたいなと思っていたのも、『ナディア』に参加したことで気がすんでしまった。だから、こっから先作らなくてもいいんですよ。
ガイナックスの他のスタッフとの世界観の差も越え難いんだと、はっきり認識しちゃいましたし。
「オタクってのをどう考えるのか」、これを軸にした世界観の差。
この問題は自分をどうとらえるかというテーマでもあるし、この世界をどう捉えるかという問題でもある。とても大きな問題です。
『おたくのビデオ』の頃までは、この差があまり気にならなかったんです。自分たちのお客さんをどう考えるのかというのは、僕にしてみれば「神ちゃんは、なんかちょっとずれがあるなぁ」という程度の差だったんです。
それが、『トップをねらえ2!』の時、大きい断層みたいな物になってて、ああこれはもう一緒に物は作れないなぁと思ったというのがゴールですね。
(テキスト掲載by サッカーのヒロシ)
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